モアイ像の謎とは?イースター島にはどんな歴史があった?

誰しも一度見たら忘れられないその独特な形状をしているイースター島のモアイ像。大きな巨人の頭部が同じ方角を向いているのが特徴ですね。

誰が、一体何のために作ったもの?

という謎が長年多くの人々を悩ませ続けていますが、その佇まいは太古の歴史を伝えてくれる歴史の伝導者のように今もなお多くの人を惹きつけています。

皆さんはイースター島のモアイ像についてどの位ご存知ですか?

私はモアイ像というと、崖の上に並んで何体かいるイメージで、そんなに多く存在しているとは思っていませんでしたが、何とその数約1000体にものぼると言われています。

造られた目的は墓碑だと言う説が有力だそうですが、そんなにとてつもない量の巨大な岩を何か生活の足しになる生産性もないのに造るだろうかと考えてみると、現代人の私から見るとちょっとどうかなと思ってしまいます。

近年はモアイ像に胴体があったというニュースも世間を賑わせてました。

このイースター島にも様々な伝説があったそうですが、後にここへたどり着いた人々の手によって、多くの記録が処分されてなくなってしまったそうです。しかし何故こんなにも沢山の像がこの島に存在してるのか、ここにはどんな歴史があったのか、この像が何を物語っているのか私達に教えてくれるかもしれません。

イースター島のモアイ像の様子が分かる動画がありましたのでご紹介させていただきます。

イースター島について

イースター島は南太平洋にあるチリの領土で、チリの首都サンディアゴから西へ3700km離れた場所にあります。北海道にある利尻島と同じくらいの大きさで、一周約60kmと小一時間もあれば周れてしまいそうなコンパクトな島。日本からこの地を訪れようとすると、40時間はかかるそうです。

現地の正式名は『パスクア島』と言い、スペイン語で復活祭という意味だそう。先住民の言葉では『ラパ・ヌイ島』と言われ、ポリネシア系の先住民の言葉で広い大地という意味があります。人口4000人ほどの島ですが、周りに島が殆どない火山島。かつては『世界のへそ』や、『天を仰ぐ目』という意味の言葉で呼ばれていたことも。こちらは19世紀に辿り着いたポリネシア人が名づけたそうです。

この現在日本でも慣れ親しまれている『イースター島』という名前は英名ですが、1722年にオランダ海軍提督によって発見され、発見した当日がちょうどイースターの日だった、というなんとも安直な理由からイースター島になったんだとか。しかし先住民の人の意向を取ると、『ラパ・ヌイ島』という呼び方が一番しっくりするのでしょうかね。

こちらの島に最初に移民が辿り着いたのは4〜5世紀ごろ、痩せて木も生えない荒涼とした土地で、穀物も育たない環境だったそうですが、さつまいもと鶏を育てて食料にしていたと言われています。5世紀の土の中から大量の椰子の花粉が見つかったそうで、ここの化石や花粉を分析した研究者によると、当時は巨大な椰子が生い茂る熱帯雨林だったそう。

10世紀ごろになると本格的にモアイ像の制作が始まり、部族も次第に多くなり、人口も増えて次第に部族も分かれて増えて行きました。17世紀頃までの800年間モアイ像は創られ続けていたそうですが、モアイ像の製造過程で大量に木が必要なので、伐採によって耕地の減少、そして土地の奪い合いなどで、1770年から約5年間、2つの部族間の抗争が激化し、衰退していったとされています。

しかしいくら信仰があったとしても、800年間も同じ巨大な像を大量に造ることに命をかけ、その為に争いがおき、部族が衰退するなんて、ちょっと無理のあるのでは、、、?と私は思ってしまいました。

17世紀に海洋探検家のクック隊が記したイースター島の様子の絵には、椰子の森は描かれていません。。

クック隊のイースター島の絵
出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hodges_easter-island.jpg

 

そして探検家などによってイースター島が発見されると、元から住んでいた部族は捕らえられ、布教の支配によって、この地に伝わる部族の文字板などに書かれていた『コハウ・ロンゴロンゴ文字』という独自に使用されていた文字は、殆ど焼かれたり破壊されたりで数えるほどしか残ってない上、未だに解読されていないそうです。

このように侵略や争いによって荒れ果てており、モアイ像もその殆どが倒されていたそうでしたが、20世紀以降の考古学者や地元の人々によって修復されたり、現在も発掘調査が進行形で進んでおり、当時のこの地でどんな歴史が刻まれていたのか、未だに解かれていない謎のベールに包まれたままになっています。

 

 

モアイ像について

モアイ像の詳細

モアイ像の多くは『アフ』と呼ばれている海岸線の高台に設けられた長方形状に積み上げられた石垣の上に乗っており、中にはカミソリ一枚通らないような高度な石切の技術と石組みの技術がないと組み立て不可能なものも存在しているそうです。

そしてモアイ像の多くは海沿いのアフの上に海に背を向けて並んで、内陸の先住民の居住跡を向くように、同じ方向を向いています。大きさはスタンダードなものだと3.5mで重さ20トン、大きいものだと20mで重さが90トンにも達します。

初期のものだと3mくらいだったのが、次第に大きくなり、顔も当初は人間のような顔立ちから後期になると細長くなっていきました。

モアイ像に使われた石の全ては別名モアイ工場と呼ばれている『ラノ・ララク』という島の東南方面端にある直径550mの噴火口跡の山から切り出されたものだそうで、凝灰岩(火山灰が堆積して出来た岩)が使用されています。

学者の仮説では、ここから建造されたモアイ像が木製の木の丸太を並べた上にそりの上に乗せて転がした、または頑丈なロープを使って2方向から引っ張って動かしたなどの運搬方法が提唱されていますが、現代よりも道具や資材が不足し、目的が儀式の為だけに、巨大な石像を運ぶことが本当に行われていたか、ということは現代人の観点からすると、矛盾が多く残ります。

ここから最大で18kmも離れたアフの上まで運ばれていたそうで、しかも当時は木が沢山茂っていたという仮説もあり、道も平坦では無かっただろうと想像すると、こんなにも沢山の数のモアイ像をひたすら儀式の為だけに運ぶだろうか?と疑問が出てきます。

 

モアイ像には実は目がはめこまれたものもあったそうで、この目の材質はサンゴ質の石灰岩だったそうで、入手が難しい素材だと言われています。さらには後期のモアイにはプカオと呼ばれる円柱状で赤い材質の石が帽子のように乗っているものもあります。こちらの石はブナパウと呼ばれる採石場所から別に持ってきたものだそうです。

 

現地に伝わる伝説

人間が何のためにモアイ像を造り、運んでいたのかという確かな理由が現代の私達には想像もつかない世界ですが、もしモアイ像が意識をもって動けたと考えてみるとどうでしょうか。

ここラパ・ヌイ島に伝わる伝説にも、『モアイ像が自ら歩いて移動していた』という話が残されています。

ロープで運ぶ時に左右に揺れる様子が歩いているように見えたという理由を付けることもできますが、近年見つかった頭部の三倍はあろうかという胴体部分と台座があったという事実からも、ロープで運んだという仮説にはちょっと無理がありそうな感じもします。皆さんはどのように思いますか?

 

ソラからの情報では

地球の謎解きさんのソラからの情報にも、モアイ像についての情報が書かれていますが、島全体が一つの生き物(イシカミ)で、そこからイシジン(モアイ)が作り出され、人間にイシジンの存在がいたということを伝えるために形として残っていると考えると、私はすんなり『そうか!』と納得してしまいました^^;。色々難しい事を考えて思索してみても、実際に答えは実はとてもシンプルなのかもしれません。

地球の謎解きさんのサイトよりhttp://sora.ishikami.jp/diary/index.php?id=20050719163911

 


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