さきたま古墳群と史跡の博物館〜県名発祥の地に残る歴史とは

「埼玉」という県名が発祥した埼玉県行田市にあるさきたま古墳群は、5世紀の末から7世紀にかけて造られたとされている大型の前方後円墳8基と円墳1基からなる古墳群です。以前は近隣に小さな円墳が35基、方墳が1基あったそうですが、昭和の初めに開拓のため、取り壊されてしまったそうです。
奈良時代に編纂された歴史書で、日本に現存する最古の正史である、六国史の『日本書紀』によると、534年に国造を任命された笠原直使主によって、この行田市の近くにある鴻巣市笠原地区に拠点が造られたのがこの古墳群の始まりとされています。
代表的な古墳群の特徴
埼玉県立さきたま史跡の博物館の公式HPや、Google MAP、Google Art Project でも公園内の様子や出土品を画像で確認することが出来ます。
現存する8基の前方後円墳と1基の円墳の特徴を抜粋してご紹介します。
稲荷山古墳…最初にこの古墳が造られたそうです。全長は120m、高さ12m にもなる大きな古墳です。
丸墓山古墳…日本最大の円墳だそうで、直径は105mにもなります。
二子山古墳…全長138m、稲荷山古墳と同じ向きで、丸墓山古墳と前後した時期に造られたとされています。
将軍山古墳…6世紀後半に造られたとされており、全長は90mほど。石室は明治時代発掘されたそうですが、一部が崩壊しそうだったので、現在はその部分を補修して施設にし、石室内部が見られる展示館になっています。
瓦塚古墳…全長73m、発掘では、ここから多くの埴輪や土器が出土したそうで、かつて墳丘ではその埴輪や土器が並べられていたそうです。円筒埴輪、水鳥や馬を引く人の埴輪など、様々な埴輪があり、その復元されたものの一部は展示館で見ることが出来ます。
鉄砲山古墳…全長は109m、6世紀後半に造られました。江戸時代に鉄砲の練習場だった事から名付けられたそうですが、それまでは、『御風呂(おふろ)山古墳』と言われていたそうです。
奥の山古墳…全長は66m
中の山古墳…全長は79m、時代は6世紀から7世紀にかけて、埼玉古墳群で最後に造られたと言われています。かつては石棺があった といわれてますが、盗掘によってなくなってしまったようです。ここでは一風変わった関東の他の所では見られないような、九州から出土したものと似た埴輪や土器が発掘されたそうです。
愛宕山古墳…埼玉古墳群で最小の前方後円墳で、全長は53mだそうです。6世紀前半に造られたとされています。
出典:さきたま古墳公園公式HP、wikipediaより引用
石室に使われている石はどこから持ってきた?
石室の復元図-将軍山古墳の資料館の案内板より
将軍山古墳には、横穴式の石室があり、中に入って見学することができますが、この石室の側壁に使われた石材は、表面に穴が多数空いているのが特徴の『房州石』が使用されています。
この岩は千葉県の富津市の鋸山周辺が採掘地の、砂質凝灰岩で、穴の表面に貝殻が残っていることもあり、この鋸山の海岸から運ばれたものとされています。
120kmも離れたから所から石材を運んでくるのは、当時の人間からしたら物凄い労力が必要だったのではないでしょうか。もしダイダラボッチのような巨人がいたとすれば、その程度の距離から岩を運ぶことくらいは容易いことだったのかもしれませんね。
天井岩は、縦1.5m、横0.8 m、厚さ30cmにもなる秩父青岩が使われているそうです。
- さきたま古墳公園案内板
- 丸墓山古墳案内板
- 丸墓山古墳
- 稲荷山古墳案内板
- 稲荷山古墳
- 稲荷山古墳の頂部の礫槨
- 稲荷山古墳の墳丘
- 将軍山古墳の案内板
- 将軍山古墳全体
- 将軍山古墳の土器
- 石室資料館
- 石室の側壁に使われた房州岩
- 房州岩の説明
- 石室の説明
- 円柱の土器
- 奥の山古墳の案内板
- 奥の山古墳
- 鉄砲山古墳の案内板
- 鉄砲山古墳
- 瓦塚古墳の案内板
- 瓦塚古墳
- 愛宕山古墳の案内板
- 愛宕山古墳
- 二子山古墳?
- 土偶1
- 土偶2
- 土偶3
- 馬の埴輪
- 円柱の埴輪
- 犬の埴輪
- 水鳥の埴輪
- 盾形の埴輪
- 盾型の埴輪2
- 盾型の埴輪3
- 盾型の埴輪4
- 家型の埴輪1
- 家型の埴輪2
- 家型の埴輪3
- 稲荷山古墳の詳細
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- 土器
写真は2006/11月(撮影者:soranoko)